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日銀総裁不在と報道

日銀総裁の空席は、戦後初というが戦前には5回あった。
初代の吉原重俊総裁は在任中の1887年12月に病死し、
その後約2カ月間、総裁不在。7代目の高橋是清総裁が
1913年に蔵相に就任した際は、後任が就任まで1週間
かかったので空席。そこで高橋是清を調べてみたら、
歴史上の出来事だった昭和恐慌と現代の共通点が浮上。

・輸出増で、日本のGDPを一気に押し上げた第一次
世界大戦の終了で、列強各国の生産力が徐々に回復し、
その反動で日本経済が落込む。
・1920年以降日本経済は10年不調となるが、27年
には取り付け騒ぎや銀行休業の金融恐慌を経験する。
70年以上後に同じ轍を踏んでいるのである。
・昭和恐慌と呼ばれる経済苦境の29年に発足したのが、
国民から高い支持を得てライオン宰相と呼ばれた
浜口雄幸内閣。その蔵相が元日銀総裁の井上準之助。
二人は緊縮・節約を合言葉に、みを伴う改革を訴え
デフレ経済下に財政緊縮を推し進めた。無能なトップの
財政政策で、経済は一層落込み恐慌状態に。
・為替政策も、金輸出の解禁で、実質的な金本位制へと
移行し、円高水準の固定相場を採用して経済が悪化。
円高で輸入が増え、財政支出の一層の削減が必要となり、
経済は一層落ち込み、経済建て直しに失敗。

ここまではそっくり。そしてその後だが、

・1929年の米国株の暴落から始まる世界恐慌の影響で
日本経済はさらに悪化、企業での大量の解雇と大幅な
賃金カットが行われ、経済は激しい落ち込みを見せる。
浜口内閣の次の若槻礼次郎内閣も「構造改革論者」で、
日本経済はどん底状態から回復できない。
・1931年に犬養毅内閣が発足し、高橋是清が大蔵大臣
に就任。矢継ぎ早のデフレ対策で日本経済は回復に
向い出す。為替政策では、金輸出の解禁停止と平価の
切下げで、結果40%近い円安局面を導き、財政政策で、
財源を国債で賄っての積極財政に転換し、国債の日銀
引受けで金利上昇を抑制している。

しかし国債の発行高が増え続ける現在には、その出口は
あるのだろうか。メディアはただ戦後初とばかりに
報道するのではなく、解決策も提示すべきではないか。

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