ラジオ

Clubhouseが教えてくれたこと

Clubhouseについてさまざまな見解がある。ボクの周囲でも、一過性、ラジオの敵、なんだかわからないなどなど。
最初にSNSと呼ばれるものを体験したのがパソコン通信だったのだが、マイコンからパソコンに呼び方が変わった当時の80年代後半。コンピュータを購入するためには、何らかの目的が必要、と言われてもその目的がわからない時に買ったMcintoshのSE30だった。

競馬のデータを「ハイパーカード」というデータベースで入力することもさることながら、NIFTY-serveにアクセスし、自分の周囲にいなかった海外競馬に興味を持つ人々が、こんなにたくさんいるのかと心躍る思いで、毎日アクセスしたのだ。それはmixiに変わり、Facebookのグループに変わった。オープンでバイラルが期待できるYouTube Twitter、Instagram、Tikm Tokなどの出現はそれらをひっくり返したが、ちょっと忘れていた濃いSNS黎明期のハイテンションにはじめて接する人々にはClubhouseは熱いSNSだ思うはず。これを期に新しいインフルエンサーになれるかも知れない、という期待を持つ人もいるだろう。

パソコン通信の会議室などでは、発信せずに傍観している人々は自らをROM(Read Only Memories)と卑下していたが、Clubhouseではまだまだそんな人々が殆どではなかろうか。有名な人がふらりと現れ、直接話ができる。マニアックな事象について語り合い交流を深める。しかしボクにとをはじめパソコン通信時代を知る人にとっては目新しいことでもないだろう。NIFTYのフォーラムであり、mixiであり、そしてウェビナーのセミナーでもあり、楽しみ方は使う人しだいだと思うClubhouse。でもかつてとは違うのは、今の若い世代は「投げ銭」のシステムを理解していることで、有料化しても可能性はあると思う。

とはいえリアルタイムで音声のコミュニケーションをはかる、というのはラジオを生業とするボクにとってはごくごく自然であり、得意なことだし、いくつかのRoomを盗み聴きしたり、突然呼ばれて参加したりもして考えた。

自分にとってのClubhouseを使うポイントは、単なる昔話ではなく、ラジオの歴史なのかなと思う。成功談は世の中にたくさんあるが、本当に役に立つのはどうして失敗したのかではないだろうか。それは根本的な間違いもあれば、時代が早過ぎたということもあるだろう。成功した話は、いきおい美談とて「盛られ」ていて、時代がたまたま味方しただけで今の時代には役に立たないこともある。昔の成功談や自慢話がつまらない理由はそこなのだ。改めて思ったのは、自分に課せられたのは、ラジオの歴史上に起ったさまざまな失敗に基づくノウハウを語り継ぐこと、ということかもしれない。

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伝説の「Grand Ole Opry」公開生放送を見る

【ラジオデイズ】

FEN(現在のAFN)で洋楽を貪るように聞いていた70年代、
しばしばカントリーのヒット曲がチャートインしていた。
でも「Grand Ole Opry」という番組はある種古臭いショー。
何となく聞いていたが、まず何を言っているのかわからない、
観客の笑いのタイミングにもついていけない公開番組だった。
スタートが1925年というから、90年あまり続いている、
おそらく世界でも類を見ない長寿番組である。メイン会場が
移転しても、番組アイコンともいえる「ライマン公会堂」で
冬場は公開生放送をやっているというので、チケットを入手し
ナッシュビルのダウンタウンにあるその会場に行ってみた。
そこは近年リニューアルされているものの、もともとが教会
ということもあり、観客席とその床はまるで通っていた高校の
礼拝堂と同じ雰囲気。伝統を感じさせる佇まいである。
フォークグループとして活躍した芝川又美先生が唄うと、
みんなが床を踏み鳴らす、いやいや本物がこの会場であって
ラジオのオンエアでは聞こえなかった足踏み音が心地いい。
僕がラジオで仕事を始めた頃にはすでに「過去のもの」と
なっていた生放送での「アナウンサーによる生CM読み」。
メンバーと認定されたベテランが、今日デビューする新人や
旬のゲストを紹介しながら進行していく30分のセグメントが
最終的には、時間きっかりに演奏で終了する進行。
毎週の蓄積が90年だからこその「出来上がった構成」である。
とはいえドラムを使うのはカントリーじゃない、という時代も
あったそうだ。時代の変化により透明な防音パーテーションで
ドラムセットを囲って参加しているとか、バンドの転換では
下手ステージ袖に次の出演者が大量にスタンバイしていて、
生CM途中にわさわさと入れ替わるのは、実際見てみなければ
分からなかったこと。それでもグラミー賞中継とは違って、
セットの入れ替えと、舞台監督が見切れたりすることはない。
出演するミュージシャンの順番も含めて、計算され尽くした
舞台進行は公開生放送の原点であって完成形ではないか。
ほとんどが知らないアーティストとはいえ、全く退屈する
ことがなかった、休憩をはさんだ2時間15分だった。

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写真を撮るのも自由なのが面白い。

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オールナイトニッポンのテーマ曲をめぐる旅

「ビタースウィートサンバ」がオールナイトニッポンの
テーマ曲で50年近く親しまれているのはいうまでもない。
この曲が選ばれる背景には、高崎一郎氏と朝妻一郎氏の
ストーリーがあった。まだ設立間もないパシフィック
音楽出版の管理楽曲だった「Lollipop And Roses」は
Jack Jonesの出世作。Herb Alpertがこの曲をカバーし、
アルバム「Whipped Cream And Other Delights」に収録
していた。オールナイトニッポン開始にあたり上司であり、
番組プロデューサーの高崎一郎氏からオープニングテーマ
選定を任された朝妻一郎氏は、このバージョンを聞かせた
ところ、「ちょっとテンポが遅い」と自分でアルバムの
他の曲をチェックして「Bitter Sweet Samba」を選んだ。
高崎一郎氏自身が「スタッフがA面とB面を間違えた」
として自分の選曲の関与をはぐらかしたため、長い間
都市伝説のようにこの逸話が一人歩きしていたのである。
去年の栃木放送の特番で当事者の朝妻一郎氏に聞いて、
この真相が明らかになって、さすがに話を面白くする人
と感心したのであるが、実はこの話には下敷きがあった。
フロリダツアーを行っている御大ジャック・ジョーンズ氏。
77才とは思えぬ声量と、ファルセット。長年練られた
外さないステージングとMCで、しんみりさせながらも
笑いをとる、エンターテイナーの真骨頂を現地で堪能した。
そこで彼の2曲めのビッグ・ヒット「Wives And Lovers」
に触れた時「この曲はもともとある映画のテーマ曲になった
シングルのB面に入っていたものを、たまたまDJが間違えて
かけてヒットして〜」。えっ、どこかで聞いた話である。
実はバート・バカラックとハル・デビッドのこの曲は、
同名の映画の宣伝のための曲だったが、実際には映画では
使われなかった。そしてJack Jonesがインスパイアされた
曲としてレコーディング、B面は別の映画のテーマ曲で
「Toys In The Attic」という曲である。ただステージで
くどくどと話すより、その方がずっと面白いのだから、
きっとそいう事になったのではないかと推測する。
高崎一郎氏は恐らくそんな事情や、Jack JonesのMCを
百も承知だったはずで「Lollipop And Roses」から
「Bitter Sweet Samba」へのテーマ曲変更を、これに
なぞらえたのではあるまいか。高崎一郎氏が亡くなった今
真実は謎である。ちなみに打ち上げでお会いした本人は
「タツ・ナガシマ(永島達司氏)に呼ばれて日本に行って
ミソノってとこでごはん食べたけどよかったなぁ。まだ
お店あるの?」はい、元祖鉄板焼「ステーキのみその」は
まだございます。喜んでお伴しますのでいらして下さい。
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BBCのDJがアップルに移籍

人気ラジオ番組「BBC Radio 1」のDJゼイン・ロウが
3月5日の放送を最後にBBCを退職。アメリカに移住して、
アップルでのキャリアをスタートするという。彼は長年
BBC Radio 1でDJを務め、Arctic Monkeys、Adele、
Ed Sheeranなどの新人アーティストを発掘し育て、
Jay Z、Kanye West、Eminemといった大物との独占
インタビューを手がけた。ライブDJとしてSkrillexや
The Prodigyのツアーに同行。MuseやFoo Fightersの
オープニングを担当したりしたこともある。
アップルは昨年、ヘッドホンと音楽ストリーミングで
人気のビーツ・エレクトロニクスを買収すると発表。
先行しているストリーミング・サーヴィスよりも低い、
音楽業界での位置づけを「Beats Music」のリニューアル
によって果たすのだろう。ゼイン・ロウ氏を起用するのは
その中心人物としてではないか、とお考えられる。
音楽配信サーヴィスに限らず、ニュース配信サーヴィスも、
アルゴリズムを使った自動でコンテンツを表示する、
というシステムが隆盛だが、誰が記事を書き、誰が選ぶのか
というキュレーション(目利き)が大事という方向に
振り子が振れる、潮目となるトピックスかも知れない。

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「放送ネットワークの強靭化に関する検討会」中間取りまとめを考える

ラジオの将来像について大きな指針がようやく出た。
総務省の担当者の話が聞けるという事で、7月17日には
すでに基本方針案が発表になっていたが、当事者の話で
ニュアンスを聞いてから意見を述べたいと思い、拙速な
感想は控えていた。
まず、V-low帯と呼ばれる90〜108Mhzについて、全て
アナログもデジタルも含めたラジオに割り当て
られた、
という事実について、大きくその意義をかみしめたい。
ラジオのデジタル化が叫ばれてから、二転三転しての
「失われた十年」は大きく、その間ラジオの媒体価値が
低下した事実は否めない。そしてボクが構成員を務めた
「ラジオと地域情報メディアの今後に関する研究会」も
「国民に大きな負担を強いてテレビを買い替えさせた
デジタル化の跡地をラジオだけが使うのはどうなのか」
といった雰囲気があった事は確かだ。
ラジオ全局のデジタル化を見送るという民放連の発表や
NHKの参入見送りなどがあった。その後出てきたAM局の
難聴取対策としてのFM周波数利用と、それでもラジオの
デジタル放送を推進するTOKYO FM中心のグループの
双方の要望を受け容れる形での周波数配分について、
「大岡裁き」という見方もあるようだ。そしてこれは
NHKにとってはかなり厳しい内容であることは否めない。
しかし特筆すべきポイントはそこではない
まず強靭化は「災害時のファーストインフォーマー」
としてのラジオの重要性を再確認したことであって、
平時でのラジオの役割については触れられていない。
また経産省の「産活法」をラジオにあてはめることで
経営上の課題をクリアし、「新たなアイデアによる
事業展開の推進」というトーンの違うものが提言の
しめくくりとして入っていることである。
これについては「5年後のラジオは大丈夫か、という
厳しい見方をされている」というニュアンスが伝え
られて、ハッとしたのが、率直な感想である。
よくいわれる「非常用持ち出し袋」の必需品として、
何とか延命をはかることができたが、このままでは
ラジオの将来はない、という意図が読み取れる。
難聴取対策だけでは復権はおぼつかないというならば
radlkoの放送区域撤廃は当然切り札にはならない。
「オーディエンスセグメンテーション」の次なる
一手は、向こうからは歩いてこない。

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人気ラジオ番組における共通点

とある場所でラジオの歴史から、現在の問題点、
将来についてのレクチャーをやらせてもらった。
漠然とした考えを整理してレジュメをまとめる
作業は困難を極め、上手くできたとはいえない。
だが全国規模でラジオを考えると、やはり営業
戦略がラジオの浮沈に関わるポイントである。
経済規模が大きい大都市圏では受信状況が悪く、
よく聞こえる地方は地元経済が疲弊している。
要するにスポンサーの確保が厳しいという現状。
しかしそうした数字からの結論だけではなく、
ラジオは業界全体でもっと、番組内容を告知し
宣伝する努力をしないといけないのではないか。
何をやっているのかわからない無関心の方が、
何が出てくるかわからない期待感を凌駕する。
番組の予告、途中経過、終了後のデータベース、
全国どこの番組でも、人気番組はすべからく
これらが充実しているのだ。そしてそれは数字
ではなく、営業的にも果実としてはね返るはず。
ラジオは共感のメディアである。とするならば、
共感はラジオ以外にも得る努力は必要である。

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『SongLetters-Handing over the Hope-』

いいライブは何回も観た。鳥肌が立つような感動の
コンサートも何度か体験した。でも「楽しかった」
といえるのは今回のイベントが本当に久々だった。
ラジオフレンドリーな女性ヴォーカリストたちが
自らのスタンダード曲と、意外な名曲のカバーを
披露するというもので、矢井田瞳がブルーハーツ、
大塚愛が中島みゆき、アンジェラ・アキが五輪真弓
シークレット・ゲストの一青窈が岩崎宏美、そして
絢香が久保田利伸を唄った。自分がAMにいた時に
番組で選曲したアーティストを、FMで仕事をした
若くて実力のある歌姫がカバーする。記憶に残る
楽曲との出会いは、こうやって時代やメディアを
超えて続いて行くものなのだ、とつくづく感じた。
何よりもギョーカイ人の常であるセットリストに
頼る事なく曲順がソラで言えてしまうほどの、
聞き馴染んだ口ずさめる楽曲ばかり。
ラジオのパワーここにあり、という素晴らしい
ライブの楽しさを、出演者と共有できた。
自分の携わる番組でもカバー曲をスタジオライブで
演奏してもらう機会があるが、勉強になりました。

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最近お気に入りの選曲のCD

ELIANE ELIASという女性アーティストがいる。
サンパウロ出身でジュリアード音楽院に留学。
彼女のアルバム「Dreamer」にはまる。
ボクと同じ学年なのだけど、トニー・ハッチ、
バート・バカラックをはじめとする稀代の
メロディーメーカーの曲をピアノで演奏し、
雰囲気のあるヴォーカルを披露している。
ボサノヴァは何となくギターの専売特許だが
ピアノでも、唄えるのだなと納得させられる。
新譜が近いということもあって楽しみだが、
何はともあれ、このアルバムは買いだ。


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21年分のありがとう(最終回)

【ラジオデイズ】

麻布十番祭りの事ばかり書いてきたが、先日とある
ラジオ制作者に、またAVANTIはどう作っていたか、
と質問された。まるで生放送でバーから中継している
スタイルなので、番組がはじまった当時は生放送では
と勘違いされた事もあったが、放送時間が場所により
微妙に異なるので、残念ながら録音番組と白状せねば
ならない。番組開始当初の「内輪話」が中心の時代は
毎週月曜日と火曜日の夜、AVANTIに沢山の人が来た。
「聞き役」と呼ばれる人間はおらず、友達を連れて
カウンターにやってくるので、自然と親密な会話が
収録できた。とはいえあまりに「内輪話」のために、
オンエアするのにはばかられるクオリティのものも
あったのは確か。番組のことだけ考えればずいぶん
「打率の低い」収録のスタイルだったといえる。
ある程度テーマを決めてそのテーマに沿った知識ある
「コニサー」を呼ぶようになってから、「打率」は
上がったものの、必ずしも友達と一緒にバーに来て
くれるわけではないし、スケジュールもバラバラに
なるために、制作のスタッフはAVANTIが空いている
状況と、ゲストと聞き役の調整をしなければならなく
なる。キャスティングをするため、テーマの決定は
必然的に前倒しになり、「コニサー」の会話をつなぐ
紳士とバーテンダーとのやりとり、そしてバーで
起きるコントの収録をパズルのように組み合わせる。
制作スタッフは違った意味で汗をかかねばならない。
おまけに話のクオリティと語り口は必ずしも一致せず
「聞き役との相性」などについては、全く別角度で
評価する、というスタッフの作業もあったのだ。
「トークの内容が芯を食っていない」という厳しい
評価はゲストだけでなく、「聞き役」のせいでもある。
オプラ・ウィンフリーのようなインタビューアーは
いないかわり、乗せて聞き出す、黙ってうなずく、
何も知らないふりをして質問を続ける、などなど
さまざまなテクニックに長けた「聞き役」が生まれた。
もちろんAVANTIで流れるジャズの選曲は、それ自体が
コンピレーションCDにもなったくらいのクオリティ。
当然ながら選曲を担当するスタッフもいたのである。
番組というのは、こうした水面下の努力が沢山あって
はじめて氷山の一角が、世の中に出るものである。
沢山のスタッフがいたから、いい番組ができるという
ワケではないけれど、おそらくこれからラジオでは、
こんなに手間をかけた番組は作られないかも知れない。
番組が終了して1カ月。そろそろ後ろを振り返るのは
おしまいにしよう。

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21年分のありがとう(続き5)

【ラジオデイズ】

麻布十番祭りでのAVANTI出店が恒例行事として
定着するようになったのは、ペンネアラビアータ
という定番商品ができたこともあるが、出店場所
の確保という点も大きい。当初「桂亭」の軒先を
借りていたものの、厨房の問題があって場所を
「登龍」隣りの空地(現オークウッドレジデンス)
に3年めから移した。ここではリスナーのみなさん
が交流するスペースもあって、購入や記帳のため
行列ができても問題がなかった。そして「景福苑」
に場所を移した2000年、その翌年地下鉄の駅が
麻布十番にできた頃から、祭り自体のの来客数が
飛躍的に伸びた気がする。メニューに関しては
かなり試行錯誤が繰り返され、ソーセージをパン
にはさんだ「サルシッチャ」や、バジルペースト
を使った「ジェノベーゼ」と「ゴルゴンゾーラ」
のソースで3種盛り、そして冷製の「フレッド」。
サイドメニューの「ソットーリオ」「アスコラーナ」
そして「オリジナル缶詰め」などいろいろあった。
それでも「ペンネアラビアータ」をしのぐものは
ないと断言してもいいだろう。厨房の問題は、
保健所の許可を受ける上でも、出店の近くにある
というのは非常に重要で「景福苑」が閉店してから
再び「桂亭」の向かいに移転した時には、なんと
お向かいの十番会館の上階にスタッフが引っ越し。
祭り期間はソース作りをする臨時厨房施設として
使い、トマトソース臭い部屋に残りの360日を
住まう、というような非常手段もとられたぐらい。
東日本大震災の余波で、祭り自体が中止になった
2011年以外計18回の出店。初回の大赤字に反省
し大盛況の連続でさぞかし儲かったのかと思いきや
食材の運搬や、紙皿などの食器、何よりも大勢の
スタッフのユニフォームや毎年の出店の資材など
なんだかんだで終ってみると収支はほぼトントン。
リスナーと触れ合える唯一の場所という第一目的を
達成した以外、事業的にはあまり褒められたもの
ではないイベント。大人がみんなで真剣に遊んだ
という事で、まあいいじゃないですか。

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